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まちの歴史・地域資源

瀬戸あかりを取材

10月4日は瀬戸マルシェの日。瀬戸神社前の枇杷島神社(姫小島)で、区内有志のお店が並びます。市立大学の学生が主導した地域おこしのお祭りです。さくら茶もご覧のように参加しました。

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夕方の写真なので人通りは落ち着いてますが、スモークチーズ、手作りみそなどは好評でした。

そして、10月23日(土)は、瀬戸神社、平潟湾周辺、はちのば、でエコな光と材料を使ったアートのお祭り、「瀬戸あかり」が開催されました。

昨年から実施された、スマートイルミネーション横浜の一環として、今年も実施されました。

地域や学生の皆さん、そして区役所との協力関係がさらに深まり、瀬戸神社周辺は、幻想的な明かりに包まれ、大勢の人で賑わいました。

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金沢八景駅ちかくの交流スペース「はちのば」でペットボトルを使った秋月鈴(光る風鈴)を子どもたちが作っています。午後6時には満員です。

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こちらは瀬戸神社境内。幻想的な雰囲気に魅了されます。

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枇杷島神社(姫小島)もこの賑わい。

そこから平潟湾を眺めると

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学生たちが、スタンドアップパドル(立ってこぐサーフィンといったところ)をライトでデコレーションして、すいすい漕いでいます。

今年は、学生のアイデアや行動力が目立つ、創造性溢れるお祭りとなりました。

これからも続くと良いですね。

金沢のお宝映像を区役所が公開中

金沢区役所では、6月から金沢区の移り変わりがわかる写真を募集し、オープンデータとして公開しています。

オープンデータとは、誰でも出典を明らかにすれば、データを利用できるものです。著作権にこだわらないデータです。

眠っていた写真をオープンデータとして公開することは、歴史を知る上で、そして今後の活用に道を開くことでも、すばらしい試みであると思います。

その中に、1972年当時の金沢山頂上付近からの写真が掲載されています。

右側に、さくら茶屋があるショッピングセンター(黄色で囲いました)が見られます、

その後ろに写った片吹地区は開発半ばのように見えます。

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眠っているお宝写真。是非金沢区へご協力を。

詳しくは下記をクリックしてご覧ください

http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/03houdou/2015/kzp-photo-album.pdf

ポールウォーキングで金沢七井めぐりしました

前回の亀井案内につづき、今回金沢の七井の紹介です。

3月23日(土)ポールウオーキングで金沢七ツ井めぐりをしました

実際に井戸を見られたのは2ヵ所だけでしたが昔あったであろうといわれる場所の近くを歩きました

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京急金沢文庫駅から横浜に向かって二つ目の踏み切りです、ここを渡って北に向かったあたりに染井があったようです

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Photo_3染井の名前を残した染井公園です、現在この中には愛児園が出来ていますが以前は横浜国大の寮がありました
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浅間神社です、今から1000年位前の寛仁年間に御堂関白藤原道長が金沢に来遊したとき〔来てないと思いますが?〕能見堂から金沢を見たときすぐ前の山を見て桶に似ているので塗桶山と名付け浅間大社を勧請したといわれています。

富士山と同じ神様〔木花咲耶姫このはなさくやのひめ〕が祀られています、全員が神社まで登り記念写真を撮りました、

今でも障害物が少ないので昔の金沢八景を偲べるのではないかと?駅から5分位で行けるので皆さんも同じ神様なので富士山に登ったつもりで行ってみたら如何ですか、

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正法院と裏にある弘法大師が掘らせたという赤井です、

住職の奥さんに許可を得て見せてもらいました、

鉱泉で疫病の治療に使ったようです、現在はこの奥200m位に赤井温泉があります、

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金沢文庫駅西口を出たあたりに白井がありました、

昭和中頃まで金沢温泉白井館という料亭旅館がありましたが現在は開発で跡形もありません

Photo_7  称名寺の池から流れていた走川跡の暗渠です、この川の跡をたどって称名寺の方に遡り亀井橋の跡をみて歩きました、

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称名寺の赤門の左奥ににある亀井です、

個人の庭の中にあるので許可を得て見せてもらいました、石作りの井戸で原型をとどめているようです

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大井戸がこの写真の坂を下りた左側にあった様ですが今はどうなってるか確かめていません

残り二つはお中井と荒井ですが釜利谷東に字名で御仲井という地名が残っているのでそのあたりにあったのではないかと思います、

荒井は金沢八景駅南の金竜禅院の近くで今から7~800年前、室町時代に六浦で回船業をやっていた豪商荒井平次郎光善という人の邸宅の中にあったようですが16号拡幅のとき埋められたとか、

これらの井戸は水道が引かれるまでは使っていたようなのでみんな昭和に入ってから埋められたのではないかと想像できます。

「亀井と亀井橋」の今昔のレポートです

その昔は金沢は泥亀のあたりから釜利谷の赤坂〔現在の釜利谷十字路の辺り〕までは海の入り江になっており、飲み水に使えるような河川がなかったとのことです。

そこでこの付近に住んでいた人達は井戸を掘って生活用水にしていたようです。

そこで、良い水の出る七つの井戸が[金沢七つ井戸]と呼ばれるようになりました。

先日、称名寺の赤門を入った〔食事処ふみくら〕の左奥にある個人宅の庭の中にある七つ井戸の一つである①[亀井]を見せてもらいました。

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石で組んである井戸は往時の原形をとどめているようでした。現在は蓋をして使われていませんが地下から水も出ており写真のパイプは水道が引かれるまではポンプで汲み上げて生活に使用されていたようです。

尚、道路から見ることも出来ますが、そばで見たい方はあくまでも個人宅の庭の中ですからお断りして見せてもらってください。

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金沢文庫駅から称名寺の赤門の手前100M位のところ左に入ると突き当たりに金沢文庫の博物館が見えます。

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左側に自動車が停まっているところから人が歩いているあたりに小さな橋が架かっていました。

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これが[亀井橋]で現在は暗渠になって分かりませんが左側は道路が急に深くなっており今でも水が流れれば小川になりそうな感じがします。

右手のほうは蓋がされていますが水の流れの音は聞こえます。

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この小川は称名寺の池から旧16号を通り泥亀新田に流れていました。現在はほとんどが暗渠となっていますがところどころに小川を見ることができます。

ところで君が崎交差点から旧道に入ったあたりを字名(あざの名)で走川【はしりかわ】といっていましたがこの川の名前と関係があるのかどうかは分かりませんが・・・

ところで七つ井戸ですが、称名寺から寺前八幡宮にでる寺前二丁目に②[御井戸]又は[大井戸]が、京急の金沢文庫駅から横浜に向かって線路の左側に③[染井]があったようで現在はどこにあったか確認はしてませんが[染井公園]が谷津町にあります。

西口を出た横浜銀行の裏あたりに④[白井]があり、そこには金沢温泉[白井館]という旅館もありました。

釜利谷には赤井温泉の入口、正法院の庭に⑤[赤井]があり、さらに西に行ったところに⑥[小中井]が、金沢八景駅から横須賀方面に向かった金龍院の入口付近に⑦[荒井]があったようです。

[小中井]は畑の中にあったようですが今は埋められてしまったようで地名に[御仲井]という字名があり、[荒井]は16号拡幅工事の時埋められたようです。

白井は白くにごっていて赤井は赤くにごった鉱泉と思われるので飲み水には不向きだったのでは? 


大井戸と赤井は残っているようなので機会があれば訪ねてみたいと思います。

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[参考資料として区政四十周記念「金沢ところどころ」昭和63年を使わせてもらいました]

金沢の街 、今昔です。(そのⅡ)

金沢の海岸は冬は海苔の養殖をしており、手前の伊藤博文の別荘で松並木の先わずかに海の家が二軒残っています。

右上の白い建物は文庫小学校でその下の空き地は開発前町屋の分譲地で、戦後は戦災を受けた人や、引揚者の寮が11棟ほどありました。

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当時は海水浴といえば電車を利用する人がほとんどで京急も7,8月の休日には(雨の日は運休)海水浴特急と称する逗子海岸行きの電車が頻繁に運転されていました。

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野島側から金沢漁港や柴を望む現在の状況です。

風景は変わりましたが、海苔の養殖は現在でも脈々と受け継がれています。

 

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金沢の街、今昔です (そのⅠ)

昭和37~38年ころの野島山山頂から撮った金沢の写真です。

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上の方から説明しますと煙突が4本見えますが、左から日本製鋼(現:ダイエー)、真ん中奥の2本は東洋化工(現:レイディアンスシティ)、右の大きいのはこの付近になっせん工場があったのでそこの煙突かと思います。

左上ののこぎり屋根は東急車輛(現:総合車両製作所)の工場で京急の鉄塔の下のほうにまだ開発されてない泥亀新田の田んぼが見えます。

右の大きな屋根は竜華寺でその左、中央付近に火の見櫓が見えますがここに金沢消防署がありました。

現在は、洲崎町内会館になっています。中央の橋は野島橋で戦時中に掘られた運河にかかっています(二枚目におおよその位置説明をのせています)。

 次のカラー写真はほぼ同じあたりから撮りました。

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右上の龍華寺の左からパークシティやサニーマート、金沢警察署などのビル群で、全く後方の工場や京急の線路も見えなくなりました。

洲崎、平潟の街並みはほとんど変わっていませんが、野島橋も新しく架け替えられ(4代目か?)向こうにはシーサイドラインの高架線が通っています。

(スタッフの梅木さんより提供)

 

 

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古木が語る歴史Ⅶ

横浜開港に大きな役割を果たした井伊直弼氏の実子である、子爵井伊直安氏は、明治の中ごろから寺前に大きな別荘を構えていました。

井伊直安氏は嘉永4年(1851年)生まれ。あの黒船が来る2年前です。

文久2年(1862年)先代藩主の井伊直充氏の養子になり、同年与板藩藩主となります。幕末は官軍側に立って戦い、お城が消失する苦難がありました。

明治2年(1869年)廃藩置県により藩がなくなり東京へ移住。

その後金沢に別荘を構えたと思われます。

「その場所は、寺前海岸の文庫小学校の東側の正門前の西柴への道路と金沢文庫駅から柴町へ通じる道路が交差しているところの海よりの今は西柴団地の一部になっているところで、前面は崖の下まで乙舳(おっとも)の海が迫り、前面に東京湾が展開し、乙舳海岸の先に野島や夏島を望み・・・房総半島を遠望できるすばらしいところでした。」(金沢今昔より)

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                      (交差点より海方向の現在の景色)

その広さは約一千坪だったようです。

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 (掃部山公園にある井伊直安氏の寄贈の水鉢 銅像とともに平成24年3月24日に第一号横浜市歴史的建造物に認定されました)

ところで直安氏は、別荘を訪れる時、当時最も近い駅である国鉄逗子駅から3人曳きの人力車を十数台を連ねて、金沢の街を走ったたため、人々は道を飛び出して眺めたそうです。

大橋新太郎氏は、明治38年(1905年)、その別荘を買い取りました。直安氏54歳、新太郎氏42歳の頃だと思われます。

与板藩は現在長岡市内の与板町にあたります。

大橋氏も長岡市出身。ほぼ同郷と言える両者の不思議な因縁があったのでしょうか(つづく)。

参考文献

「金沢今昔」 杉山高蔵著 大成堂 昭和60年発行 

古木が語る歴史Ⅵ

金沢町第二公園付近に別荘を構えていた大橋新太郎氏ですが、実はその周辺の広大な土地を所有していました。

「大橋新太郎伝」によると、大橋氏の土地買収の記録は次のとおりです。

金沢町 字寺前     一千九十坪余      明治三十八年

金沢町字町屋原     三千六百七十二坪余 明治三十九年

金沢町字寺前      七千七百八十四坪余 明治四十年

金沢町字寺前      五千六百六十六坪余 大正五年

金沢町字泥亀  十七万二千四百五十二坪   大正五年

合計すると19万660坪くらい。換算すると約63万平方メートルです。

これはなんと東京ドーム4つ分の面積です。

次々に土地を買い足している様子から、大橋氏は金沢の地がよほど気に入ったのでしょうね。

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写真の金沢町第二公園付近の買収は、3回目の明治40年の7784坪余にあたると思われます。こちらに別荘はありましたが、ここだけではないのです。

さてこの写真お分かりでしょうか。

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横浜開港を決定した、そして桜田門外の変で有名な、江戸幕府大老の彦根藩主井伊直弼氏の銅像です。

銅像は西区紅葉坂付近の掃部山(かもんやま)公園にあります。掃部山は、直弼氏の官位である掃部頭(かもんのかみ)に由来します。

明治42年(1909年)横浜開港50周年に除幕しましたが、安政の大獄の主役であっただけに、伊藤博文など政府の要人は欠席したそうです。

さて、井伊直弼氏になぜご登場頂いたか。

大橋新太郎氏は、明治38年に最初の土地を購入してますが、売主は井伊直安(なおやす)氏という人で、井伊直弼氏の実子にあたる人物なのです(つづく)。

参考文献

「大橋新太郎伝」 坪谷善四郎著 博文社新館発行 昭和60年

 

古木が語る歴史Ⅴ

かつて西柴団地内柴・金沢町に大きな別荘を構えていた大橋新太郎氏とはどのような人物でしょうか。

Img_2409                            (別荘のあった文庫小入り口交差点付近)

大橋新太郎氏は、文久3年(1863)、7月に越後長岡藩の城下で生まれました。7月は薩英戦争が始まった時で、幕末の混乱期でした。

5歳の時(1868)には、長岡藩と新政府軍がぶつかる北越戦争が勃発。父佐平氏は、命を狙われながらも戦争に反対したため、家族が危機に瀕することは幾度もあったようです。

父佐平氏は、荒廃した長岡の復興のためには、教育によって人材育成が大事であるとして、長岡小学校の開校に尽力します。

新太郎氏は過酷な幼少期を乗り越え、勉学に励み、14歳には上京します。

徳川家達さんなどが学ぶ同人社に入学し、勉学はもとより、人脈も多いに築かれたそうです。

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                    (大橋新太郎氏似顔絵のつもり。)

父佐平氏を助けて、出版社の博文館などを支えてきた新太郎氏は、図書館の開館直前に亡くなった父佐平氏の遺志を引き継いで、大橋図書館を完成させ、発展に尽くしました。

ところが、大正12年(1923)の関東大震災で、建物と3万3千冊の蔵書が消失。

しかし、4万冊を有する本館を再度建設。昭和17年(1942)には蔵書17万冊になる大図書館になりました。

Img_4557                 (三康図書館の図書類。大橋図書館の所蔵図書も引き継がれています。)

図書館は戦災は免れたものの、博文館の経営不振の影響もあり、昭和24年(1949)には建物を譲渡せざるをえなくなり、昭和28年(1953)には解散となってしまいました。

Img_4556          (三康図書館も大橋図書館と同じ私設図書館。東京都心とは思えない閑静な空間です。)

大橋図書館の図書一切を引き継いだのが、西武鉄道株式会社の創始者である堤康次郎氏でした。やはりと言うべきでしょうか。

当初は豊島園での設立を予定したようですが、大本山増上寺との協力で、三康図書館として現在の芝公園に昭和32年(1957)に設立されました(つづく)。

古木が語る歴史Ⅳ

100年以上前の明治35年〈1902年)のことです。

ある私立図書館が東京都麹町区〈当時)に開館しました。

図書館の名前は「大橋図書館」。

大橋図書館は、大手出版社「博文館」館主である大橋佐平氏が発起人でした。

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(大橋佐平氏の似顔絵のつもり。激動の幕末だった新潟長岡のご出身。)

佐平氏は、明治14年に「越佐毎日新聞」を明治19年に「仏教新聞」を発行し、さらには、上京して明治20年に出版社の「博文館」を創設。

明治26年の外遊により、カーネギーが世界各国へ巨額を提供して図書館を設立しているのを知り、社会貢献のために図書館の設立を準備しました。

明治34年7月に着工しましたが、同年11月に佐平氏は志半ばで逝去され、子の大橋新太郎氏が引き継ぎ、明治35年6月に約5万冊の蔵書で開館しました。

東京では上野の帝国図書館以外では唯一つの本格図書館となり、1日平均400人の来館者があり、多くの人々に愛されました。

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その大橋新太郎氏こそ、かつて金沢町第二公園を含む一帯に別荘を有し、金沢文庫の文化財保護などに大きく貢献した人でした。

大橋さんもこのタブノキを愛でてたのでしょうか。

次回は金沢をこよなく愛した大橋新太郎さんの話題に移ります。

参考文献 「大橋新太郎伝」(昭和60年発行)坪谷善四郎著㈱博文館新社発行