古木が語る歴史Ⅶ
横浜開港に大きな役割を果たした井伊直弼氏の実子である、子爵井伊直安氏は、明治の中ごろから寺前に大きな別荘を構えていました。
井伊直安氏は嘉永4年(1851年)生まれ。あの黒船が来る2年前です。
文久2年(1862年)先代藩主の井伊直充氏の養子になり、同年与板藩藩主となります。幕末は官軍側に立って戦い、お城が消失する苦難がありました。
明治2年(1869年)廃藩置県により藩がなくなり東京へ移住。
その後金沢に別荘を構えたと思われます。
「その場所は、寺前海岸の文庫小学校の東側の正門前の西柴への道路と金沢文庫駅から柴町へ通じる道路が交差しているところの海よりの今は西柴団地の一部になっているところで、前面は崖の下まで乙舳(おっとも)の海が迫り、前面に東京湾が展開し、乙舳海岸の先に野島や夏島を望み・・・房総半島を遠望できるすばらしいところでした。」(金沢今昔より)
(交差点より海方向の現在の景色)
その広さは約一千坪だったようです。
(掃部山公園にある井伊直安氏の寄贈の水鉢 銅像とともに平成24年3月24日に第一号横浜市歴史的建造物に認定されました)
ところで直安氏は、別荘を訪れる時、当時最も近い駅である国鉄逗子駅から3人曳きの人力車を十数台を連ねて、金沢の街を走ったたため、人々は道を飛び出して眺めたそうです。
大橋新太郎氏は、明治38年(1905年)、その別荘を買い取りました。直安氏54歳、新太郎氏42歳の頃だと思われます。
与板藩は現在長岡市内の与板町にあたります。
大橋氏も長岡市出身。ほぼ同郷と言える両者の不思議な因縁があったのでしょうか(つづく)。
参考文献
「金沢今昔」 杉山高蔵著 大成堂 昭和60年発行
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